山本昌の人生
現役時代、得意のスクリューボールで数々の打者を翻弄し、日本プロ野球界では前人未到の50歳まで現役を続けたレジェンド、山本昌氏(本名・山本昌弘)。
その生い立ちと、球界での活躍を振り返り、どれだけすごい選手だったかを検証していきましょう。
1965年8月11日、東京で生まれ、神奈川県育ち。
生まれた時にはすでに4000g以上も体重があったジャンボベビーであり、幼少期も牛乳が大好きだったようで、そのころからすでに周りの友達よりも体が大きかったようです。
小学校、中学校時代は大きな大会で結果を残したわけではない同氏ですが、中学3年時の最後の夏の県大会での好投がスカウトの目につき、日大藤沢高へ入学することになります。
県下でも有数の野球名門校へ入学しますが、甲子園出場経験はゼロ。
高校卒業後の進路は日本大学へ進学することが決まっていましたが、高校での現役引退後、神奈川県選抜で韓国選抜チームと対戦した際に好投し、これがまたしてもスカウトの目にとまり、その年のドラフト会議で中日からドラフト5位で指名を受けます。
高校時代の監督から励まされたことや、父親が中日ファンだったこともあり、入団を決意します。
苦労が絶えなかった現役時代
相当な活躍を見せた山本氏ですが、入団して数年間は苦労の連続でした。
アメリカキャンプの際、そのまま交換留学生という形でアメリカに残りましたが、ここで残された選手は球団のお荷物状態の選手ばかりだったとか。
体の大きい山本ならアメリカで何とかなるんじゃないか?というフロントの考えも甘く、当時、山本氏を預かっていたドジャースのスタッフも、
『あのピッチャーはダメ』と酷評されるほど、体は大きくても選手としては全くダメという烙印を押されていました。
そこで山本氏を変えたのが、伝家の宝刀、スクリューボールです。
アメリカ留学中にチームメートがキャッチボールの際に投げたその変化球に驚き、握り方を教わり、遊び半分で投げ続けたところ、実践でもかなり通用する決め球となり、所属リーグの1Aで結果を残し始まると、当時の中日・星野監督が日本へ呼び戻し、すぐに先発ローテーションに入れました。
その後、同じくサウスポーの今中投手と左腕二枚看板を掲げ、活躍する事30年以上。
最多勝、沢村賞、開幕投手と名実ともに中日のエースになった山本昌氏。
決め球のスクリューボールは最後の最後まで衰えることなく、特に左打者を苦しめました。
引退後は野球解説者としてメディアに現れる事が増えましたが、趣味であるラジコンは現役時代から腕を磨き、今ではその業界でも有名だとか。
色んな側面を持つ『レジェンド』山本昌氏です。